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万里长城日语导游词

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万里长城日语导游词

  长城是世界文化遗产,历史上长城城堡是长城沿线重要的军事类城镇,也是长城防御体系不可分割的组成部分。下面是学习啦小编为大家带来的万里长城日语导游词,欢迎参考!

  万里の長城は雄大(ゆうだい)な古代建築物として、世界にもその名を馳せています。それから中国にはこんな言葉もあります。「不到長城非好漢」と言って、「長城に到らずば、好漢(こうかん)にあらず」というような意味です。ですから皆様、今日はみんな好漢になれるよう、ぜひ「長城の頂上(ちょうじょう)」を目指して頑張りましょう。

  万里の長城は なぜその名が世界にもとどろいているかといいますと、それは5つの理由があるからです。

  まず1つ目の理由は、何と言っても長城には 非常に長い歴史があることです。

  中国は紀元前(きげんぜん)7世紀の戦国(せんごく)時代から、燕·斉(せい)·楚·秦(し

  ん)·韓·魏(ぎ)·趙の七大諸侯国(しょこうこく)がお互いに防御(ぼうぎょ)のために、それぞれ管轄する土地に防御壁(ぼうぎょへき)を造るようになりました。これこそ、現在の長城の雛型(ひながた)となったものです。中国の歴史書の『左伝』によると、現在の山東省に位置した当時の斉国が最初に防御壁を作り出した諸侯国のようです。続いて、楚という国も南北につながる数百キロメートルの防御壁を築き上げたと言われています。こうして出来上がった城壁(じょうへき)と堀(ほり)がある都市は、外敵が侵入するには困難でした。それから紀元前の221年に秦はほかの諸侯国を滅ぼして中国を統一するようになりました。秦の始皇帝は封建経済を守り、そして発展させるために、遊牧(ゆうぼく)民族の匈奴族(きょうどぞく)を破ってから、中国北方にもともと存在した秦·燕·趙の作った城壁を一つにつないだ上に、更に一部新しい城壁を作り上げました。こうして、西の臨洮から東の遼東まで長さ約1万華里の長城が出来上がった次第です。華里は中国里のことで、1華里は500メートルに当たります。そういうわけで、「万里の長城」と呼ばれるようになったのです。万里の長城は今日に至ってもう2300年ほどの長い歴史があります。たとえ明代の長城から数えても少なくとも600年あまりの歴史を持っています。このような古い歴史をもつ偉大な建築物を 今日まで保存している例は 世界でも非常にまれで、貴重なものです。むしろ奇跡と言っても良いでしょう。

  2つ目の理由は、驚くほどの長さがあることです。

  資料によると、中国では 春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)時代から明代まで、程度こそ異なりますが、長城に対する修繕や増築などが絶えず行われてきたことが分かります。長城は黄河流域と楊子江流域の16の省や自治区や市に、分布(ぶんぷ)しています。その長城は 東西につながるものもあれば、南北に走るものもあります。全体の長さは108000華里(54000キロメートル)に達しています。その中で1万里を越える長城には 秦長城、漢長城、明長城があり、それぞれ長さが1万里以上になっていることから、万里の長城と呼ばれるようになったのです。

  今日ご覧頂く八達嶺長城は 明代に造られたもので、中国では最も若くて壮観で、保存状態も良い長城の一部です。この長城は東の遼寧省の鴨緑江からずっと、西側の甘粛省の嘉峪関まで続き、延々と遼寧省、河北省、天津市、北京市、内モンゴル、山西省、陝西省、寧夏など9つの省や自治区直轄市に横たわっています。全長は12700華里(6350キロ)に達しています。

  それから3つ目の理由は、工事が非常に大規模なことです。

  科学者の推測によりますと、明長城の修築に使われた土やレンガ、石などを利用してあらためて幅1メートル、高さ5メートルの城壁をつくるとすれば、地球を一周することができるそうです。また、厚さ0.33メートルで幅5メートルの舗装道路にすれば、地球をなんと三周することができるということです。なお、アメリカの宇宙飛行士の話によると、月から見た地球は青色の球体みたいなもので、手を伸ばすと届くような感じがするそうです。なかでも、一番印象深いのが中国の万里の長城で、まるで色とりどりの帯のように地球の北半球に象眼(ぞうがん)されているとのことです。このエピソードからも長城はその規模がいかに大きなものであるかがお分かりでしょう。

  4つ目の理由は、建築技術が極めて高いことです。

  長城の通っている所は山や谷があれば、川や海もあり、砂漠や草原もあります。地質地形が非常に複雑で険しいものです。とりわけ、施工(せこう)作業が極めて困難でした。長城を建築するためには、数学、力学、幾何学(きかがく)、測量学、地質学、建築学などに、構成や運輸など多種類の科学技術を応用しなければなりません。このような巨大かつ複雑な工事が中国古代の労働者によって行われたのみならず、未だに揺るぎないものであるのは、中華民族の限りない知恵と偉大な創造性を表しています。

  最後に5つ目の理由は、長城はこの世の奇跡と呼ばれるほどだということです。

  世界では古代建築物の七大奇跡があるとよく言われていますが、それは中国の万里の長城以外に、古代エジプトのピラミッド、イラクバビロンの空中庭園、ギリシアのゼウス巨像、ローマのコロシアム、地中海のアポロ像にインドのタージマハールなどを指しています。中でも特に中国の万里の長城は、その雄大さや景色の素晴らしさで国内外の観光客の注目を集めているのです。

  関溝と居庸関(かんこうときょようかん)

  いよいよ「南口」の近くに来ました。ここは西山及び燕山(えんざん)山脈といわゆる「北京湾」の平原を眺める最高(さいこう)の場所だそうです。この南口から八達嶺までの20キロぐらいの地域は歴史上「関溝(かんこう)」と呼ばれています。漢字は「関(せき)」の「関(かん)」に、「溝(みぞ)」の「溝(こう)」と書きます。ここの地勢は険しくて、昔から、北京から内モンゴル及び西北高原への天然の要塞(ようさい)になっていました。この20キロあまりの山谷では 72の景色が楽しめると言われていますが、そのほとんどはもう姿を消してしまいました。

  しかし、その72の景色のなかで 一つ語るべき名所があります。それは、居庸関(きょようかん)です。万里の長城の要所(ようしょ)には みな関所(せきしょ)が設けられていますが、居庸関もその中の一つです。その名は長城着工(ちゃっこう)のため、集められた人々がこの地に移住させられたという意味の「徙居庸徒(しきょようと)」に由来しています。この居庸関は先ほどお話した関溝のほぼ中心にあり、北京から約50キロほど離れています。居庸関は地勢が険しく、昔の北京の西北の入り口とされていた場所で、重要な第一の要衝(ようしょう)でもありました。現在ご覧の関城は明代(1455年)に建築されたものです。当時ここでは、常時五、六千の駐屯軍が守備(しゅび)していたそうです。今は夏になると、蜿蜒(えんえん)と続く山々は見渡す限りの緑に覆われて、実に美しい眺めとなります。八百年前の金の時代から、このあたりは既に「燕京八景(えんきょうはっけい)」の一つとして、「居庸畳翠(じょうすい)」という名が付けられていました。

  雲台(うんだい)

  居庸関城の中心に「雲台」という有名な建物があります。1345年に建てられ、6百年あまりの歴史を持っています。雲台の上には三つのチベット式の仏塔(ぶっとう)があったのですが、のち戦火(せんか)で焼き払われ、今は台の部分しか残されていません。台の真ん中にアーチ状の城門があります。その城門のアーチ状の両側の壁には仏教(ぶっきょう)の曼陀羅(まんだら)や四天王(してんのう)のレリーフのほかに、6種類の文字で書かれた経文があります。四天王とは「東方の持国(じこく)天王」「西方の広目(こうもく)天王」「南方の増長(ぞうちょう)天王」と「北方の多聞(たもん)天王」を指しているそうです。6種類の文字とは、漢語、梵語(ぼんご)、チベット語、モンゴル語、ウィグル語と西夏(せいか)語です。これらのレリーフを彫刻した雲台は、純白の大理石(だいりせき)で築かれ、まさに元の時代の彫刻芸術を代表する傑作(けっさく)であると言ってもいいでしょう。

  ご覧のアーチ型(がた)の門は 高さが7.27メートルあります。城門の下は 道路となっており、その幅は6.32メートルで、奥行きは17.57メートルもあります。昔は馬車(ばしゃ)も自由に通れたそうです。

  現在は居庸関の雲台及び長城沿いの八達嶺や山海関、嘉峪関などが 国の主な保護文化財になっています。

  京張鉄道と詹天佑(けいちょうてつどうとせんてんゆう)

  関溝を行き来するこの鉄道は「京張鉄道」と呼ばれています。中国ではよく知られている鉄道です。というのは、この線路は中国人自ら始めて設計し、完成させたものだからです。

  この京張鉄道は鉄道技術者の詹天佑が設計したものです。詹天佑は近代中国の優れた鉄道技術者であり、中国鉄道史上の有名人でもあります。彼は広東(カントン)省の出身で、11歳の時アメリカに留学し、卒業して帰国したのは1881年のことでした。1905年中国初(はつ)の鉄道の総技師長となり、自ら沿線の実地(じっち)調査を行い、敷設(ふせつ)工事にも参加しました。実はこの辺は、地勢(ちせい)が非常に険しく、汽車が直進(ちょくしん)出来なくなっているのです。この難題を解決するために、詹天佑は この線路を「人」の形に敷いたスイッチバック方式つまり折返線(おりかえしせん)に設計して、機関車を2台使っていました。つまり、一台は推し用、一台は引っ張り用で、険しい道を通るのです。この鉄道の完成は中国の歴史に輝かしい1ページを記しました。これはまさに中国鉄道史上の奇跡と言っていいでしょう。

  当時この鉄道は、北京と張家口(ちょうかこう)を結ぶ線路として使われ、全長204キロしかありませんでしたが、現在、この鉄道は中国北方の幾つかの大都市を結んでいるだけではなく、モンゴル人民共和国のウランバートルとロシアのモスクワまでつながっています。それから、ヨーロッパへの国際路線としてもその役割を果たしているのです。

  さて、この辺りは「南口鎮(なんこうちん)」といって、「南の口に 鎮まる」という字を書きます。関溝の南端(なんたん)の出口のところに位置しています。昔は「関城(かんじょう)」と言って、「関(せき)の城(しろ)」と書き、北側は山で、南は平原に隣接していますから、歴代にわたって年中(ねんじゅう)駐屯軍(ちゅうとんぐん)をおいていました。今はご覧のように、既に近代的な工業の町となっています。この南口鎮を過ぎると、目の前に山並みが現われてきます。いよいよ万里の長城がその姿(すがた)を見せてくれますが、まず目に入るのが前方(ぜんぽう)右手の小山の長城にある烽火台です。その烽火台はどんなものかと言いますと、簡単に言えば、今日の電話やファックス或いはEメールに当たるものでしょう。詳しい話は長城を上りながらしたいと思います。

  八達嶺長城(はったつれいちょうじょう)

  ただ今到着しましたところは八達嶺です。「八達」というのは、「四通八達(しつうはったつ)」の「八達」で、東西南北(とうざいなんぼく)に通じる交通の発達しているところを意味しています。八達嶺の城門の東側には欄干(らんかん)で囲まれた大きな石が見えますね。この石は長さが7メートル、高さは2メートルで、「望京石(ぼうきょうせき)」と呼ばれています。この石には3つの言い伝えがあります。

  1つ目はこういう話です。つまり、昔ある日、天女が天から降りてきて、この石の上に立つと、北京城が見えたということから名付けられたということです。

  2つ目はこのような話です。秦の時代に、万里の長城を建築するため、強制的に働かされていた人々がふるさとを眺めるためにこの石に登りました。この石には仙人の魂(たましい)があるのでこの石に立ちさえすれば、ふるさとが見えたという言い伝えです。

  最後の一つは次のような話です。1900年に八ヵ国連合軍が北京に侵入した時、清の西太后は慌てて北へ逃げてしまいました。途中、この石の上から北京城を振り返ってみたということから、この名が付けられたそうです。

  今でも、この石の上に立つと、晴れた日なら北京市内にある北海公園の白塔(はくとう)が見えるそうです。

  それでは、東側の城門をご覧になって下さい。「居庸外鎮(きょようがいちん)」という大きな文字が見えると思いますが、意味はここが居庸関北側の重要な防御区域(ぼうぎょくいき)だということです。城門をくぐると、西側の城門にも大きな四文字(よんもじ)が見えます。それは「北門鎖鑰(さやく)」、つまりこの城門こそ北京城の正門を開ける「カギ」だという意味です。いずれも地勢の険しいこの辺りが重要な北京の要衝(ようしょう)であることを示しているのです。

  この八達嶺長城は明の弘治(こうじ)18年(1506年)に築かれたものです。城壁にはすべて煉瓦(れんが)と大きな石材(せきざい)が使われていますから、長城の一番頑丈(がんじょう)な部分だと言えるでしょう。この長城は高さが平均約7.8メートルですが、基部(きぶ)の幅は6.5メートルで、上部は5.7メートルあります。

  さて、いよいよ登りますが、登り道は左右(さゆう)二つあります。入り口右側のほうは女坂(おんなざか)と言って、登りやすいコースです。左側の方は男坂(おとこざか)と言って、わりあい険しいコースです。女坂は楽に歩けるので、登る人もたくさんいます。こちらは頂上まで登るには 大体50分かかるでしょう。反対に、男坂の方は わりあい険しくて、ちょっときついでしょうが、頑張れば、一時間ぐらいで頂上に着きます。眺めの良いほうをご希望の方には、こちらをぜひお勧めしたいものです。それから、若い方もぜひこちらのコースにチャレンジしてみて下さい。どうしてもお体にご無理のある方は こちらのロープウェイをご利用ください。頂上まで10分もかからないで着きますから、とても楽です。

  それでは、お好きなコースをお選びの上、お登りください。

  城壁(じょうへき)

  八達嶺長城は明長城の中でも最も雄大なものであり、代表的なものでもあります。長城の中心の建築物は城壁です。この城壁は高さが平均7.8メートル、下の幅が6.4メートル、上の幅が5.8メートルあり、特に頑丈に造られています。長城の上部は馬なら5頭並んで進むことができ、人なら10人並んで歩けるほど広いと言われています。その城壁は始めは殆ど黄土(おうど)を固めて造られたものでしたが、明代になるとその黄土の外側を煉瓦や石で固め、城壁の上にも煉瓦や土を敷くようになりました。

  城壁の上には、約250メートルおきに「のろし台」と呼ばれる四角の「望楼(ぼうろう)」があり、その下に煉瓦造りの十数人が住める小さな部屋があります。壁の上の外側には姫垣(ひめがき)と言って、煉瓦で積み重ねた高さ1.7メートルの壁があります。それから壁には低く凹んでいる部分があり、見張り窓や銃眼(じゅうがん)などがついています。

  敵台(てきだい)

  敵楼(てきろう)とも呼ばれています。長城の上にある防御施設の一つです。

  敵台は城壁の上に立てられ、四角形(しかっけい)または長方形(ちょうほうけい)になっている建築物です。それは二階建てになっており、上には見張り窓や銃眼があるだけではなく、信号用の狼煙(のろし)をあげる設備も置かれています。その下には門と階段があり、兵士が休憩する場所や武器の置き場としても使われていました。とにかく敵台は長城沿線の重要な軍事施設であったのは言うまでもありません。

  烽火台(のろしだい)

  さて、さきほども烽火台についてちょっと触れましたが、改めてお話しましょう。ご覧のように、烽火台は独立した望楼となっており、長城沿線の急所(きゅうしょ)や視野の広い連山(れんざん)に造られています。これも長城における重要な防御施設です。

  では、烽火台は何に使うかと言いますと、簡単に言えば、信号機のようなものです。現在なら、電話一本やファックス一枚またはEメールで直ちに連絡できるものですが、昔の中国では、軍事情報は馬か烽火を使って伝えるほかなかったのです。つまり、敵の動きを発見すると、昼間は煙を燃やし、夜は火を燃やして軍事情報を伝えたのです。かつて古代では狼の糞をまぜて燃やしたそうです。というのは、狼の糞が入ったものを燃やすと、煙が天まで届き、広がらないと言われていたからです。というわけで、烽火は狼煙(のろし)つまり狼(おおかみ)の煙(けむり)とも書かれているのです。中国語では「烽火連天(ほうかれんてん)」つまり「のろし天につながる」という成句がありますが、「烽火が一面に燃えている」という意味で、まさに古代戦争の場面そのものの写実(しゃじつ)です。

  みなさんもよくご存知の杜甫の詩「春望」に「烽火連三月、家書抵万金(烽火三月に連なり,家書〔かしょ〕万金〔ばんきん〕に抵る)」という句がありますね。即ち、長い間戦乱(せんらん)が続き,そんな折(おり)に家から来た手紙には万金の価値があるという意味です。

  話を元に戻しますが、一つの烽火台は煙が燃えると、すぐに次から次へと燃やし伝えて、遠方まで情報を知らせることができたわけです。敵が100人あまりなら煙は一本、500人なら煙は二本、千人以上なら三本だというように、煙の本数が多ければ多いほど、状況が重大になるのです。 ?

  烽火台は 中国古代ではとても有効な通信手段でした。

  長城に関する物語(ちょうじょうにかんするものがたり)

  長城というと、昔から伝えられている「孟姜女(もうきょうじょ)」の悲しい物語をお話ししないわけにはいきません。こんな物語です。

  昔、陝西省のあるところに、隣同士で「孟」という家と「姜」という家がありました。孟家(もうけ)は自分の庭にふくべの種を撒きました。いつのまにか、ふくべの蔓(つる)が塀(へい)を越えて姜家(きょうけ)の庭まで延びて行き、そこで大きな実を結びました。孟家と姜家は共にこの大きな実の世話をしていました。その実が熟してから平等に分けようと思っていたからです。とうとうその日が来ました。孟家の人が切ろうとしたところへ、ふくべの実がぱかりと自然に割れてしまったのです。すると、その中になんと、まるまる太ったまっしろな赤ちゃんが眠っているではありませんか。孟家と姜家はどちらの家もこの可愛い女の子を引き取りたくてたまりませんでした。最後に相談の結果、この子を両家(りょうけ)で一緒に育てることになり、名前も両家の姓に因んで孟姜女と付けました。

  歳月が流れ、いつしか孟姜女は17、18歳の娘ざかりを迎えました。やさしくて美しい孟姜女は誰からも好かれていました。そこで両家は孟姜女のために婿(むこ)さがしを始めたのです。ようやく万喜良(ばんきりょう)という立派な若者を見つけて、めでたく二人の結婚式を挙げました。

  しかし結婚して3日も経たないうちに、孟姜女は最愛の夫を長城の工事に徴用されてしまいました。三年たっても夫は帰ってきませんし、音信もまったくありませんでした。夫は今ごろどうしているだろうと、毎日のように心配していました。するとある晩、夫の夢を見ました。夢の中で家に帰ってきた夫は、「寒い、寒い」とただ叫び続ける一方です。そんな夢を見た孟姜女は夫のために作った綿入れや靴や靴下を持って、両家の父母に別れを告げて、夫の行った場所を探しに出掛けました。やっとのことで、長城の大きな関所(せきしょ)の山海関まで辿り着きました。そこで夫はすでに亡くなったと知らされて、孟姜女は気を失ってしまいました。その後、孟姜女は三日三晩にわたって長城のほとりで泣き続け、その涙が長城の城壁に触れたその時です。頑丈な長城が突然ガラガラと音を立てて崩れてしまい、夫の遺骨(いこつ)が現われました。孟姜女の大きな泣声に連れて、20キロあまりにわたって、長城はガラガラ、ガラガラと崩れていきました。悲しみのあまり、絶望した孟姜女は夫の遺骨を抱いて、山海関の海に飛び込んで夫の後を追っていきました。人々は孟姜女をあわれんで、「孟姜女廟(びょう)」を建てました。その孟姜女廟は今も山海関長城の近くにあります。

  さて、お疲れ様でした。如何でしたか。長城を登ってこられて、人工衛星から認識できる唯一の人工建築物と言われる長城が、その歴史の長さゆえ北京の自然に美しく溶け込んでいることを実感していただけたでしょうか。

  登りながら、何故このような険しい岩場にわざわざ長城をつくったのか、こんな所では敵も攻めては来れないとお考えにはならなかったでしょうか。長城はご覧のように連なり(つらなり)、下から見上げると、天に届くかのように聳えています。長城の上から見れば、長城は大蛇(おろち)のごとく険しい尾根(おね)を這い回っているようです。その姿の雄大さ、霧に浮かぶ塔楼(とうろう)の幻想的なさまは 長城を登る我々を過去への憧れ(あこがれ)に導き、そして酔わせるものだと長城を登るたびに感じますが、皆様も同じくその頂上に立てば、それこそ感無量となったことと思います。

  北京へ戻る途中(ぺきんへもどるとちゅう)

  この八達嶺長城を登ってこられて、どんなご感想をお持ちでしょうか。

  中国では、観光業の発展に伴って、この万里の長城は毎日数え切れないほどの観光客を国内外から迎えています。長城は既に中国の一種のシンボルともなっています。

  しかし北京では 西端(せいたん)の東霊山(とうれいざん)付近から、八達嶺、黄花城(こうかじょう)、慕田峪(ぼでんよく)、古北口、金山嶺、司馬台(しばだい)、将軍関(しょうぐんかん)、黄崖関(こうがいかん)へと 北京の街の北方を囲むように連なる長城は みなこの八達嶺長城のように、すべて完全に残っているわけではありません。にもかかわらず、その半ば崩壊(ほうかい)して、殆ど人ひとりしか通れない道、殆ど樹木で覆われている道、そのどの部分を取ってもそれぞれに個性があり、歩く者を飽きさせません。八達嶺長城のほかに、例えば「慕田峪長城」も「司馬台長城」も捨て難い見所(みどころ)になっているのです。では簡単にご説明いたします。

  慕田峪長城は、東の金山嶺と西の八達嶺の中間に位置しています。全長は2250メートル、海抜は535メートルあり、市内から約1時間で着きます。慕田峪長城は明代の隆慶(りゅうけい)、万暦(ばんれき)年間に造られ、崖(がけ)の上や地勢の険しい急所に建てられています。規模は小さめですが、観光客が八達嶺長城より少ないので、ゆっくり観光できるのが一つの魅力です。

  城壁まで急な階段を1000段も登らなくてはならないのですが、中日合弁で造った観光用のロープウェイもあるので、ゆっくりと見たい方はこのロープウェイをご利用なさると良いでしょう。慕田峪長城の近くの山は緑が多く、春夏秋冬それぞれの季節には異なった景色が見られます。1985年に正式に公開されて以来、「新北京の十六名所」の一つとして好評を得ている所でもあります。ですから、慕田峪長城もぜひご覧いただきたいところです。

  それから「司馬台長城」というのは、北京中心部の東北の密雲県にある長城のことです。起伏(きふく)の激しい急斜面(きゅうしゃめん)と切り立った崖(がけ)で有名です。司馬台ダムによって、東の部分と西の部分に分けられています。東の部分には、敵楼が16ヵ所、西の部分には敵楼が18ヵ所あります。それぞれの敵楼は構造が異なり?形も多様で?集中してあるのも特徴的です。敵楼の間隔は平均してわずか15?6メートルしかありません。東の部分では、二ヵ所の敵楼がもっとも雄大です。それは、仙女楼と望京楼です。特にもっとも高い望京楼は海抜1000メートル近くもあり、眺めの素晴らしいところです。

  司馬台長城は万里の長城の精髄(せいずい)の部分であり、国連のユネスコによって、「世界遺産」の一つとして承認されています。

  次回北京にいらっしゃるチャンスがおありでしたら、ぜひ司馬台長城へもお越しください。
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